ブログ名

ボケ防止の為のブログ

好きだからこその苦しさ

 

    一人のファンの戯言。何年後かに見てこんな日もあったねと笑える日が来ることを願って。

 

 

 

 

 

 

 

 関ジャニ∞が好きである。どこが好きか、と言われると解答を複数持つので困るが、強いて一つあげるのであれば、それは「彼らの関係性」になる。ボケればツッコむ、そんな関西ならではの雰囲気だけではなく、不安になれば言葉をかける、想いを共有しようと思えば肩を抱く、歌詞を書く…様々な面で彼らは私達に「ひとつのグループ、人と人との関わりあいとしてのあり方」を魅せてくれた。
 そして皮肉にも、その一人が辞める、という時でさえもそのあり方は今までと何も変わらず輝いて見えた。

 

 初めて関ジャニ∞を観たのはいつだっただろうか、元々ジャニーズアンチだったので関西のなんかわちゃわちゃした面白いヤツら、という視点で、かつ斜めにしか観ていなかったが、思えばその頃からトリックにかかっていたのかもしれない。ハマってしまった今から同じモノを観たりすると、どうも一人一人反応が違う。当たり前と言えば当たり前だけれど、気づいた時には割と強めの衝撃を受けた。同じ笑うでも笑い方が違う。大口を開けて笑う人や口角を上げて笑う人、一度含み笑いもするも我慢出来なくなって吹き出してしまう人。素直に「良いな」と思う。なんだったら時に苦い顔をして笑っていない人もいたりする。これを見ているのが面白かった。
 笑うという感情一つをとってもこれなのだから、普段も存分に一人一人違う考えを持つ姿を見せてくれる。一人が意見を言う、一人が賛成をしたかと思えば反対をする人が現われる。意見を言った方はそれを否定せず、どのようにしたら最善かを他に策を求める。ファンになった日数は少ないけれど、その姿を見ると長年同じメンバーでやってきたという軌跡が見えるようでたまらなかった。紆余曲折ありながらも築き上げできたのだろうその関係性を見るのが好きだ。

 ワタクシ事で申し訳ないけれど、十代の頃、人とどうやって話せば良いか、接していいかわからなかった。音の軽いメロディーと共に歌われるテンプレのような歌詞を賞賛したり、横文字の内容の薄っぺらい小説を読んで泣いていたり、勉学に勤しむのをステータスとして飾りにしか思っていない、そんな風に見えていたのでどうしても好きになれず、また、仲良くしてくれようとしていた人も結局話していると感覚がズレているのが分かって勝手に萎えて無愛想にしていた。他人を否定しかして来なかった。そのうち自分の周りには同じように人を斜めにしかみない人間と、逆にいい所を見つけようとしてくれた、自分よりはるかに精神が熟している人間だけになった。それはそれで楽しかった思い出もあるのだけれど、少しさみしかったのも事実で、クラスの真ん中でワイワイと纏まって話している人々を見ると心の中で舌打ちをしていた。進級の度に心を入れ替えて仲良くしようと思ってはいたけれど、方法が分からない。方法が分からないから失敗して、また人という生き物に触れるのが怖くなる、そんな不毛な事を続けていた。そんな中で関ジャニ∞の、ただの関西の兄ちゃんではない部分に触れた。観てしばらくは目当てだった渋谷さんの髪の毛が長くてしかも髭が生えている事に動揺するばかりだったが、時間が経つに連れてふと「この人達は他人を否定しないのだ」と気づいた。俺はそう思うけどお前はそう感じるんだな、まぁそれはええよ、お前のもんやし、そんな風に。凄く羨ましかった、そのような仲間を作れた彼らが。そしてそんな仲間・友達が出来たら良いのに、と心から思った。

 

 元々趣味趣向、育ちや家庭環境まで違う人達だから、絶対に感覚が交わらない所もあるのだろうし、実際仲の悪かった時期もあったと公言している。どんなに嫌で殺したいくらい憎んでも、仕事もあるし他のしがらみもあって離れられる環境になかった、だからこそ、互いがなるべく自然で、かつ傷つけあわないように、関わり方を模索していた結果が今の彼らの関係性をダイレクトに支えている。簡単には離れられない、そんな状況が家族にも似た雰囲気を作り出している。それぞれが「違う」と認めた上で、ではそれをどう活かそうか、と考えている。これが当たり前だろう、と考えられる人は自分の事を褒めて良い、少なくとも未熟な私はお手本のような関ジャニ∞の「人と人との繋がり方」を見なければ気づけなかった。小学校の頃読まされた道徳の教科書よりよっぽど価値のある出会いだった。
 
 そんな出会いを与えてくれた一人が、四月十五日、グループと袂を分かつことを発表した。青天の霹靂だった。まずはFCでコメントの発表、いつも下ネタを言って爆笑しているおちゃめな姿からは想像のつかないくらい丁寧な文章で述べられていて、決意がひしと感じられた。そして続くメンバーのコメント。錦戸さんは一番に表に出す文章として綺麗に、安田さんはいつものようにカラッと、でも決して突き放さないように、丸山さんは一人のファンとして、大倉さんはまだ納得してないようで悔しそうに。そして村上さんと横山さんは今まで渋谷さんと並んできた仲間として彼が抜ける事に対してファンへの謝罪を述べ、その後で友として、幼馴染として想いを綴っていた。後に記者会見が速報で開かれ、安田さんはドクターストップで来れなかったものの6人の登上で開かれた。( https://dot.asahi.com/amp/dot/2018041500008.html?__twitter_impression=true )記者の質問の仕方に苛立つ事もあったが、それでもこれを見ながら「これは私の好きな関ジャニ∞だ」と何度も何度も感じた。途中で渋谷さんが涙目である事を「目薬のせいだ」と言ったり、コメントを発表する大倉さんの顔が不貞腐れていたり、クールな文章を発表しておいて結局上手く話せない錦戸さんも、ファンのために、と言ってくれる丸山さんも、泣いてない!と言い張る横山さんも、「口下手な男が一人で話したら心配」と話す村上さんも、みんなみんな、私が好きだった関ジャニ∞として前に立ち、そして旅立とうとしている渋谷さんの事をそれこそ様々な想いはあれども背中を押して見送ろうとしている。決して今回の事に対して嫌だという人を責めたくない、なんなら私も死ぬほど嫌だ、それでも、どうしても、そんな姿を見せられてしまったら受け入れるしかないのでは、と思ってしまった。時間はかかるかもしれないけれど、いつか、六人の関ジャニ∞と一人の渋谷すばるとして、笑顔で迎えなければいけないと。だからゆっくり、ゆっくりと噛み締めて、そして飲み込んでいきたい。
 
 最後に、村上さんの言う通り別に死んでしまう訳ではないので、きっと彼らの思い出はこれからも更新されていくんだと思う。というより信じたい。関ジャニ∞はこれから6人になるけれど、7人でいた事を(言うならば8人でいた事を)なかったことにしないで欲しい。脱退を決めたと言っていた日の翌日にブルーノマーズのライブを観に行っていたのはなかなか面白かったが、それくらいがいい。
 彼らの築き上げてきた関係性が好きだった、きっとその関係性は変わらずに魅せてくれると信じて、夏を迎えたらいい!ね!!!!ね!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

字下げになりたい

 

 

 お久しぶりです。お元気ですか?
 勉強する週間が無事終わりしばらく脳味噌を、ひたすらソシャゲイベントをまわったり新規実装された曲でシャンシャンしていたり友人とアキバやスカイツリーその他諸々へ出向いたり武道館にてライブ参戦したり(アイカツ武道館最高でした)して休めていた所でした。休めすぎだなぁと思ったのでまたぼちぼち再開していこうと思います。何事もまず、思う事から始めないと何も出来ません。

 

 

 

 さて、皆さんお気づきでしょうか?このブログが字下げしている事を。自分がここにおいて字下げするに特に理由はありませんが(というより何も考えていなかった)、近頃このようなWeb媒体において字下げを行わない文章が増えています。そもそも多くの人が使っているであろうiPhoneでは1発で字下げ出来ないし、触れる機会の多いTwitterやLINEなどでも特に使わないし。小学生の頃、早ければもう幼稚園保育園でしょうか、文章を書く時にまず指摘される字下げ、それを行わないとは。かと言って字下げをしていないから教養がないだとか、そういう事はあまり感じられず、文中の言葉たちのフレーバーはとても新鮮であったりして、全く違和感なく楽しんで読ませて頂いています。だので「あえてしない」という方がしっくりくると考えました。

 


 ではなぜ「あえてしない」のか。気になったので、原点に帰りそもそもの意味を調べようとグーグル先生に聞いてみたところ、「字下げ」と打った時点でこれです。

 

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明らかに今日本人は字下げの意味を問うている!!!!!

 

    ちなみに字下げの意味自体はおおむね文章を見やすくする、段落がどこかをわかりやすく示す行為、の把握で大丈夫だそうです。しかも指定さえなければするしないは自由なんだそう。ちょっと捻りがなくて面白くない。そんなで調べていくうちに見つけた「字下げを行わずとも良い環境になってきた」説が自分の中で字下げに疑問を抱いた理由がしっくりときました。

    スマートフォンの主流の横読み縦スクロール、そして段落と段落の間は空けるなどすれば字下げを行わなくとも段落判断は容易に行えるので必要はない。とのこと。この時点で「う、うわ~~しっくりしっくり激しっくり」と思ったのでそのあえてしないの理由を考えるのはやめました。きっとそうなんだよ。


 しかし、今まで散々「字下げって意味ある?」と述べてきましたが、いざ無くなるかもしれない、と考えるとンン~~~となるのが人の常。例えば小説など(紙もWebも含めて)から字下げが消えたらどうでしょう。確かにカギカッコの段落頭は字下げするのしないの論争がなくなり平和が訪れるかも知れませんが、一抹の寂しさを覚えます。正直自分が読んでる活字は大体アホアホなのであってもなくても特に何も感じませんが、偶にちゃんとしたやつを読むと「まさかこれは段落のブロック形まで計算されているんじゃなかろうな?!」くらい行間が上手いものがありますよね。下までルーっと目線を行かせて、段落が終わった!と上に戻せば字下げによってガクッと一文字分ずっこける、それが気持ちいー!となった時を思い返すと字下げが完全に無くなるのはやっぱりちょっと寂しい。(無くなった未来、字下げ研究家が生まれたりする所まで考えましたがあまりにもくだらないのでここには書きません)

    いてもいなくてもいい存在ほどいざいなくなってしまうと大切な意味に気づいたり気づかなかったりする、いいポジション取ったなぁ、字下げ!!
 

 

 

 

 

王を称えよ!(感想:バーフバリ 王の凱旋)

 


 ミーハーなので「バーフバリ 王の凱旋」を観ました。だってFGOのフレンドの一言欄がどんどんバーフバリ!バーフバリ!になっていくし好きなライターも良いって言ってるし……そんなミーハーなので前作を観ないで劇場の席に座ったのですが、なんということでしょうか、あらすじがありました。ミーハーに優しすぎる…!!!というわけで今回はミーハーにも情けを下さる作品の感想です。以下ネタバレ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 インド映画ということでいつ歌って踊るのかワクワクしてましたが、実際歌って踊るシーンは1回しかないので歌って踊るのを期待してる人も絶対に行った方がいいので期待しないで行くといいと思います。めっちゃ歌うんで!!!!!


 バーフバリ本人の説明を端的に述べると「ハチャメチャに強くて賢くてかっこよくて優しい僕らのヒーロー」です。バーフバリ、誇張もなくハチャメチャに強い。雑魚に対してはもう無双も無双、1人で何人相手してるのか…そして後半に行くにつれて絶対そんなん無理だろ~~~~!!!というアクションをやってのけてしまうので、関東大会より後の必殺技が人間離れしてきた頃のテニプリを観てる気分になりますが、このアクションがアホみたいにかっこいい!!!作中曲の音圧もさながら(これもかっこいいのでサウンドトラックが欲しい)、次々と繰り出されていく戦略は見もの、身体だけではなく脳を使う、バーフバリの強さをこれでもかと見せつけられます。これには小国の姫もにっこりです。王座は逃しつつも民に愛されている彼の姿を見て誇らしげに口角を上げていたシーンにキュンとしました。この映画、強い女の人が複数出て来るので観ていてとても気持ちが良かったです。強い女の人っていいよね!

    全体としては始終身体に力が入っていたのか帰り道に初めて足が痛くなっていたのに気づいたりするくらいに最高だったのですが、唯一弱点を上げるなら、あらすじに気を取られ過ぎていると前半の方ほぼ同じでは?前作を観ているのか??と少し戸惑った辺りでしょうか、これは前作を観ないで行ったミーハーの自己責任ですが!!まだ前作を観ていない段階なので、これはきっと…親父も似たようなことになってしまっていて…前作を観ていたら…王族の呪い部分がもっと色濃くなったんだろうなぁ…という…推測……これはちゃんと観ないとね!!いけません!!個人的には親子して(もしくはそれ以上)全く同じ顔っていうのがじわっときて面白かったです。シヴドゥなんてあんな美人なお母さんを持ってしてもお父さんと顔全く一緒…似てる点は性格くらい…?並んだところを観たかった、並ばないから意味があるんだと思うけど!!

 

 観終わった後は自分もバーフバリを慕う国民のように声を上げたくなります。観るかどうか迷ってるならばぜひ観てきてくださいと背中を押したい作品です。損はしないと思いますし、なにより尽くしてみたい王を見つけることが出来ます!!!!

 

 バーフバリ!バーフバリ!バーフバリ!

 

 

追記

    調べてると、シヴドゥの父・アマレンドラと母・デーヴァセーナの、踊る方のシーンが公式で公開されていました( http://eiga.com/news/20171228/9/ )。これだけでもなかなかツッコミ所満載で楽しいのですが、デーヴァセーナがバーフバリを試すために荒波を起こす辺りがお気に入りです。強気ないい顔をしている。

    あとこれはさっき教えて貰ったのですが、バーフバリ二部構成、時制的には王の帰還の方が前作の伝説誕生(二人の息子・シヴドゥの話なので)より前ーー!!ミーハーは気をつけろーーーーー!!!!!

 

追記の追記 

    前編を観ました……時制的には後編前半、前編、後編後半、なんですね…また忠誠心が高まってしまった……シヴドゥのやんちゃっぷりにびっくりでした、大分やんちゃボーイで可愛さゲージがすごかったです、そしてカッタッパにどうしても肩入れが止まらない…!!!

    今度時間が合えば鑑賞会をします……にこにこ!

 

 

 

 

感想:羊の木

 

    今回は嘘感想じゃないです!!そして書きやすさ故にまた偉そうな口調になってますがめちゃくちゃ面白くて展開にコロコロ転がされた人間の感想なので気にしないでください!!

    ⚠︎以下ネタバレです!!注意!!!⚠︎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全体的な感想は、やり直そうという意思のないものが軒並み脱落していくところがなかなか勧善懲悪で気持ちよく、意思のある人は居場所をみつける、希望とまでは言わないまでも信じていることが叶う、そこがなにより良かった。こういった日常の中の狂気を描くものは狂気を描きすぎて不条理になっているものが目立つし偶に不愉快になる時があるので嬉しい。観た後のつっかえ等はなく気持ちが良いと言っては少し語弊があるが、帰り道に手羽先を食べられた。それくらいの感じ。
 
 今回の映画は錦戸亮が主演ではあるが、正直なところ松田龍平とダブル主演でも良かったのでは?と疑問が湧くほどに印象的であった。展開的に言えなかったのか?と邪推したくなる。
 先程も述べた通り、この映画は努力が報われていくと感じた。だからこそ、一人、また一人と居場所を見つけ、もう一度人生を歩んでいく。また、居場所は見つけられなくとも信じている小さなことが叶い、微笑みを取り戻す。松田龍平の演じる宮腰はその居場所も見つけるも、錦戸亮演じる月末が秘密をバラしたことにより一つ無くしてしまい、罪を重ね、それでもなお繋ごうとした月末との最後の繋がりを自らの手でたってしまい、最終的にのろろ様の罰を受けることになる。このように述べると月末が悪い人間に見えるし私もそう感じたが、後々の反応で宮腰にとってそれは些細ではないにしろそこまで気にしていないように見えた。宮腰がまた罪を重ねてしまうのは、杉山の言う通り蠅を殺すような感覚であるのであれば。

 のろろ様が宮腰に罰を与えた、と感じたのは、以下の理由からだ。敢えてここに観た直後のメモ書きを置きたいと思う。


 もしあそこで月末が手を伸ばさなかったら?宮腰は一人で死んでいたかもしれない、月末の、必死であるがゆえの無意識の救済の手が、最後に宮腰の罪を重ねてしまったのかもしれない、と考えると非常に悲しい物語で、だからこそのろろ様は自らの手で罰を与えたのかも、ギリギリまで宮腰の目に、涙が溜まっていたように思う。愛そうとした人が、過去を知って離れてしまった、それでも月末は、一人の友として接してくれようとしていた、もしかしたら少年院にいた彼は、クラスメイトとの、若い惚れた腫れた、に憧れていたのかもしれない。「もし月末くんが彼女のことを好きだと知っていれば、僕は付き合わなかったよ」「月末くんといると、昔から一緒だった気がする」それは好きな人を取り合って、仲違いをした(してしまいそうになった)一連も含めての台詞に聞こえた。自分のことを聞いてきた時も、秘密を言ってしまった時も、月末は「友達として」接していた。そんな月末を裏切るような行為をしたからこそ、彼はあのような最後を迎えたのかもしれない。


 自分はまず、宮腰は月末を恨んでいるのではないだろうか、と思っていた。しかしそれは少し違うようで、確かに月末の家にいきなり宮腰の車が止まっていた時は殺しに来たんじゃなかろうか、と胸が騒いだ。しかし二人の会話の途中で寝てしまった宮腰、そしてその横でつい寝てしまう月末を見て、寝れる環境下ではあったのだ、と見れた。よっぽどの強者であれば、殺人犯を前にしても寝れるかもしれないが、月末はヤクザを前にすると怯みまくって出そうとした名刺を叩かれた後、何も言えなくなるような、要するに普通に生きてきた人間だ。寝れる、という事は、多少ピリピリしていても安心出来るような空気であったと言えるのではないか。片方が本当に恨み辛みを抱えていたら、月末が鈍感すぎる点を見ても流石にそうはならないと思った。(ここに関してはというか全てにおいて、まだふわふわとした考察なのでもし違うのでは?という意見があれば教えて頂きたい)ともかく、個人的な印象として、あのシーン以降の二人は「誰の事も関係の無い、二人だけの世界」にいたのではないか、と感じた。そこがまたいじらしくそしてもどかしく、胸を突く。あの雰囲気を作り上げる二人の俳優に拍手をしたくなる。そして最後、メモ書きにあったように、自分のことを聞いてきた時も、秘密を言ってしまった時も、月末は「友達として」接し、謝り、いきなり家に来ても上げてくれ、ギターも教えてくれるような、冒頭で宮腰自身が言っていたが、「いい人」なのだ。多少は間違いがあっても素直に謝れる、近所に子供が住んでいたら、あのお兄さんを見習うんだよ、と言われていても良さそうな人。そんな彼に手を伸ばされてもなお、その手に逆らって岬の下に引っ張って、共に落ちていく……なんというか、なんというか…という結末である。

 

 彼に対しての記述の最後に、彼は死のうとしていたのか?と、上げたい。浮き上がってきて必死に藻掻いていた姿は形容しがたく、もし彼が、他の4人のように「きちんと更正しよう」ともがくのであれば、どこかで、「これが自分なのだ」と諦めなければ、そのような不毛な考えをしてしまいたくなり、同時に愛おしさが沸いてくる。そのような世界を望んでしまう。胸が苦しくなる。6人の中で、子供たちと遊んでみたり、友達を欲したり、ふざけてみたり、1番この街に馴染もうとしていたように見えたから。それでも人殺しはどんな罪より重く、杉山のような悪意、自分本位で罪を犯そうとしていなくても(それでも彼は殺人はしようとはしていなかったが)同じだけの重みが落ちてくる。いつの間にか自分は「宮腰」という人を更正する人だと「信じて」いて、そして裏切られてしまっていた。見事に制作の意図にはめられたのだ。まだ一回目なので取り切れていない部分があるかもしれない、それを掬いにもう1度行っても良い、そんな風に思えた。あとハチャメチャに優香がエロい。びっくりした。


 他の俳優さんについても書きたいがキリがないかつ正直宮腰でいっぱいいっぱいだったので、落ち着いたり余裕が出てきたりなどした時にひっそりと追記なりをしたいと思う。今は優香がエロかったとしか言えない。人妻はすごい………

 

 

 

 

 

 

 

感想:食べる男

 

 

 時間が出来たので、忙しくなる前に読んだ「食べる男」という本の感想を述べたいと思います。以下ネタバレです!

 

 

 

 

 

 

 

 


    作者である皮算用狸吉さんのファンなので、先月に出た「食べる男」のレビューにも満たない感想を書こうと思います。「食べる男」のあらすじを端的に言うならば、味覚が他の一般の人々よりも逆になっている特殊な感覚を持つ男の話、でしょうか。彼は日常の中で味覚の差異における差をひしひしと感じていました。そして自分の美味しいと感じた物、好きな物を周りから否定され続けて少しひねた性格をしています。

    冒頭でも、テレビでやっていた「食べた瞬間に美味しいという行為」をそんなすぐに味を感知できるなどありえないと鼻で笑い、48ページでは好きな女の子がそれをやっていて幻滅する(しかし54ページ目では既にまた好きになっていてとても単純なように感じる)など、この本では淡々と彼の日常が続いている。他にも、カラオケオールをして楽しかった、久々にマンションの管理人さんに会ってしまい怒られた、メニメニエトセトラ、短編のような形で綴られる彼の日常は読んでいるうちに親近感を湧かせます。

 

 しかし冒頭で述べられていた通り、彼の味覚は通常の逆、甘いは苦い、まずいは美味い、酸っぱいは渋い…その事が、なんやかや平和に暮らしていた彼に少しずつ少しずつズレを作り、気づくと大きな問題に陥っている。これが非常に緻密なもので、自分はその少しずつのズレに気づけずにいたので、ラストのシーンでは「そういう事か!!」とつい声をあげてしまいました。今まで本当に単純な日常を描いてきたのはこれをやりたかったからなのだ、と恐怖さえ覚えました。そのズレはいつから起こっていたか、それとも初めからもうズレ始めていたのか、それを確かめる為に2度目を読もうと思います。

 

 

 詳細を貼っておくので、もし興味が出たら調べてみてください!オススメです!!

 

 

タイトル:食べる男
作者:皮算用狸吉
出版社:ハルク図書
値段:1470円(ハードカバー、大判)
発売日:2017年1月14日

 

 

 

 

 

 

 


※全部嘘です※

帰りたい

 

    行かねばならない場所に心が囚われていて家にいても全く落ち着かない、「帰りたい」と常に思い、願う…帰りたい…帰りたい……

    そうつい考えてしまったいることを視野に入れると、帰るとはどういう事だろうと考えようとしていたら乗り換えですさようなら………

 

 f:id:paya2mochi:20180201093112j:image

 

    帰りたい……………

 

 

ごきげんようジャパン

 

 

 案の定三日坊主になった。しかして今の期間は「勉強をハチャメチャにしなくてはならない期間」なので、ブログをほっぽり出してもボケ防止をしている状況になる。よって今回のことは三日坊主と罵られても「いや、勉強をハチャメチャにしていたので」と青いボールペンを片手で回しながら堂々と答えられるのだ。なんだったらそれに口を突き出しながら貧乏ゆすりを加えても良い。大義名分は密かに果たされているからだ。

    最近は手を動かしているので少し頭の中のモヤが取れ、そのモヤとモヤの隙間から単語がポツポツと入って来る気がする。実際にあるもので例えるのであれば、綿菓子の持ち手として使われているであろう割り箸を抜いて、そこに出来た穴から知識が抜けてくる、だろうか。まだボケが完全には治っていないのでぼやっとした例えになってしまった。ぼやっとなりがちの人生である。なんだったら今回の書き方はである調であり、始めた頃のですます調とはかけ離れた偉そうな仕様となっていてブログの一貫性など夢のまた夢、ぼやぼやのぼやだ。なんかこっちの方が書きやすい時がある。青いボールペンの時もそうだった。あくまでボケ防止の為のブログなので、変に気にすることもないのだ、指と頭を動かして文を書いている、この事実さえあれば何もいらない。

 

 

 そう言えばこの前のメモ帳にポケGOの内容があったので、近々、勉強をハチャメチャにしなくて済む期間が終わったら上げるかもしれない。グラードン、めちゃくちゃ欲しい~~~~!!!!!(捕まえられる期間はとうに終わっている)